衆議院議長にも選ばれた
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川原茂輔
(1859〜1929)
茂輔は1859年(安政六年)、今の大川内町岩谷に生まれました。明治維新になる十年ほど前で、世の中が大きく変わろうとしていました。しかし、山と山のあいだの小さな村は眠ったように静かでした。子供たちは鬼ごっこや戦ごっこ、かけっこや相撲、ときには山に登ったりして、毎日楽しくすごしていました。
茂輔が、とくに好きだったのは相撲でした。たいへんな負けず嫌いで、投げられても投げられても立ち向かって相手が降参するまでやめませんでした。よほど好きだったのか、相撲は大人になっても続けたということです。
そのころの農家の子供は家の仕事をよく手伝いました。五月から六月にかけては、肥料にするため山の草を刈り取って水田に入れる作業がありました。茂輔はおおぜいの子供たちいっしょに村の草刈り場にでかけて鎌をふるいましたが、ときには、友達が刈った草をこっそり自分の荷に加えて持ってかえったりするような茶目っ気もありました。
茂輔はまた、勉強も大好きでした。その時代は学校がなかったので、八歳になると岩谷恵浄というお坊さんのところにかよって読み書きを習いました。
さらに十二歳になると、伊万里に来ていた草場船山というすぐれた学者の教えをうけることになりました。この船山は茂輔に大きな影響を与えた人でした。十六歳のとき船山のともをして茂輔は江戸(東京)にのぼりました。江戸には三年ほどいましたが、そこで見たり聞いたり学んだりしたことは、感じやすい若い心を激しく揺さぶりました。
郷里に帰る日が近くなるにつれて茂輔は考え込む日が多くなりました。東京では、時代が潮のように早く流れていました。そのころ、とくにさかんだったのは自由民権運動で、東京だけではなく地方の都市に広がっていました。そして数年前、佐賀でも騒ぎがあったばかりなのに、こんどは鹿児島で戦いがはじまっていました。
夕方、茂輔は窓辺に立ち、街の鼓動のような人のざわめきに耳を傾けながら、故郷の風景を目に浮かべていました。そこには何年たっても変わりそうもない見慣れた村が谷間に張り付いていました。一本の細い道の左右にくすんだ家が傾いて不規則にならんでいました「名前のとおり、岩と岩とのあいだの谷間じゃなかか」茂輔はくちびるをかみました。
「なんとかせんばならん」
そのときとつぜん、村をはなれる前に青螺山に登ったことを思いだしたのでした。急な斜面を、樹の根をつかみ、岩のかどにしがみついて一歩一歩つめていくときのあえぎがよみがえってきました。のぼりの苦しさがかえって負けん気に火をつけたのでした。
頂上からは、岩谷の集落を見下ろすことはできませんでしたが、木々の間に伊万里の町が見え、そのむこうに青い海が広がっていました。その美しい海の色を眺めていると、希望と力が体にみなぎるのをおぼえました。「あのとき、おれは伊万里の山や海から、これから進む道を教えられたのではないか。静かだが人のゆききもあまりない、さびれた故郷の暮らしを豊にし、そこに住む人たちが幸せに生きることができるようにするには、世の中の仕組みをかえねばならない。」と考えました。
「ようし、おれは政治家になるぞ。」茂輔はかたく決心しました。
  青 螺 山
村に戻った茂輔はもう以前のガキ大将ではありませんでした。おりにふれて人々の集まりにでかけ、東京で勉強してきたことをわかりやすく話して聞かせました。そんなときも知識をひけらかすようなことはなく、親しみのある土地の言葉で親切に教えました。「自分の故郷をかえりみない者は道に外れた者だ。」という船山先生の言葉を大切に守っていました。このようにして政治家への一歩をふみだしました。
大川内村の世話をする仕事についたのは、二十歳をでたばかりのころでした。1884年(明治十七年)には二十五歳の若さで県会議員に当選しました。県会議員にはそのあと三回当選しました。衆議院議員になったのはそれから八年後のことです。茂輔は三十三歳、元気いっぱい国の政治に取り組みました。茂輔は衆議院議員に十一回当選し、長いあいだ政治家として活躍し、国の問題を自分の問題としてけんめいに努力しました。
1919年(大正八年)、茂輔は国を代表してワシントンの軍縮会議に出席しました。はてしなく広がる海をすすむ汽船のデッキで、「諸君は外国からおおいに学び、よいところは受け入れ、我が国の短所をおぎなってますます発展させなければならない。」という師船山の教えとともに、伊万里の青い海を目にうかべていました。
衆議院議員になって依頼、東京での茂輔は、野武士のように大胆で不敵な政治家でしたが、いそがしい仕事のあいま、田舎から上京して勉強している学生たちの面倒をみるやさしいこころを持っていました。また国だけでなく、県に学校を建てたり鉄道を引いたりして、地方の問題にも力を尽くしました。
国の政治にたずさわるようになっても、茂輔は故郷に大きな家を建てたり豪華な食事をするようなことはありませんでした。岩谷をおとずれる人たちが「あれが茂輔さんの家か。」とおどろくような、狭い庭のついた粗末な家を残しました。白米だけのごはんはぜいたくだと、麦をまぜたものを食べていました。
1929年(昭和四年)、茂輔は衆議院議長に選ばれました。たくさんの議員のいろいろな意見をまとめるには、広い心と、すぐれた考えを持っていなければなりません。もう七十歳になっていましたが、茂輔はそれにふさわしい人でした。
城山公園に茂輔の胸像が立っています。厳しくもやさしい顔で、ふるさとの発展を見守っているかのようです。