一代で財閥をつくりあげた
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藤山雷太
(1863〜1938)
藤山雷太は、1863年(文久三年)八月一日、二里町大里の大庄屋藤山家の四男とし生まれました。大里の八幡神社の祭日で、折からの雨に藤山家の庭のセンダンの木に落雷があったので、雷太と名付けられました。
雷太は、五歳のころから漢学や書を学び、十一歳になると草場船山の啓蒙社塾に入門しました。そして、才能を認められて、船山に連れられて京都でも勉強をしました。三年後に京都から帰ると長崎師範学校に入学し、1880年(明治十三年)に首席で卒業しています。すぐ小学校の先生になり、一年後には母校長崎師範学校に迎えられました。しかし、もっと勉強したいという気持ちをすてきれず、慶応義塾大学へ入学しました。大学では福沢諭吉の下で学び、「天下国家のために尽くす。」という気持ちを持つようになりました。そこで、大学を卒業して長崎にもどった雷太は、二十六歳という若さで長崎県会議員に立候補し当選しました。
議員になった雷太は、外国人の居留地問題や水道敷設問題など多くの難題を解決し、その力量を買われて議長に推されました。しかし、国家のために尽くしたいという気持ちはますます強くなるばかりです。雷太は国会議員として自分を試そうと思いました。ところが、国会議員になるには三十歳以上でなければなりません。そのとき、まだ二十九歳だったのです。次の選挙まで待てば立候補できるのですが、一日も早く中央で働きたいという気持ちを押さえることができず、県会議員を辞めることにしました。このことを知った恩師福沢諭吉は三井銀行を紹介してくれました。これが、雷太の一生を大きく変えることになったのです。このとき、雷太は「われわれは国家の将来を開いていかねばならない。今、最も大切なことは西洋各国に遅れずに、日本を豊にすることだ。」と語っています。こうして実業界への大きな第一歩を踏み出したのでした。
銀行に入ってからの雷太の働きは目覚ましいものがありました。さらに二年後には芝浦製作所の所長となりました。芝浦製作所は、日本でも最も古い電機製作会社で時代の最先端をいく会社でしたが、業績は、決しておもわしくありませんでした。雷太はみずから先頭に立って経営を立て直し、立派な会社に育て上げました。
その後、雷太は王子製紙株式会社の専務として招かれました。ここでも多くの苦難が待ち受けていました。そのために重い病気にもかかりましたが、原料になる木を捜してまわったり新しい技術をすすんで取り入れたりして会社を復興させました。他にもたくさんの会社に招かれ、行く先々で、すばらしい成果を上げました。それは、雷太の将来を見通す力がすぐれていたこともありますが、国家のために尽くすという強い信念を持ちつづけていたからとも言えるでしょう。
こうして少しずつ実力をつけていった雷太は、当時経済界の第一人者であった渋沢栄一男爵の依頼を受け、四十七歳で大日本製糖株式会社の社長になりました。そのころ、この会社は日本で一番大きな製糖会社でしたが、経営は非常に悪く倒産寸前でした。さすがにこのときは重大な決意でその願いを引き受けました。多くの外国人も株主として投資をしていましたから、日本を代表するこの会社が倒産することは、日本の信用にかかわる問題だったのです。雷太は、日本の工業発展のため、また数千名の株主や社員のため自分を犠牲にする覚悟でした。
会社に乗り込んだ雷太は、そのすぐれた指導力と経営手腕を発揮して、わずか五間で業績を盛り返し、名実ともに日本一の製糖会社に育て上げました。この働きは日本国中で注目を集め、ついに日本の砂糖王とまでもてはやされるようになりました。
のちには保険、銀行、電力、紡績、鉄道などいろいろな事業にも手を広げ、一代で藤山財閥を築き上げました。財界の信用もあつく、藤山財閥は日本十大財閥の一つに挙げられるようになりました。また東京商工会議所会頭や経済審議会委員、鉄道審議会委員、人口食料問題調査委員など多くの公職にも選ばれました。このようにわが国の産業経済の発展に大きく貢献したのです。また中国、東南アジアはもとより欧米視察にも何回も出かけています。
これらの功績によって1919年(大正八年)に藍綬褒章、十二年には紺綬褒章を受賞し、さらには貴族院議員にも選ばれ、正五位勲三等の位も授けられました。その上フランスの政府からはレジオン・ドノール・シュバリエ勲章、安南(今のベトナム)国王からグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られました。雷太の名声は日本だけでなく広く外国にも知れ渡っていたのです。
しかし雷太は自分を育ててくれた故郷伊万里を忘れることはありませんでした。雷太は神を敬う気持ちが強く、今日自分があるのは神のおかげとして大里の八幡神社に、総銅板張りの社殿を建立し、大きな灯篭や鳥居を寄進しました。社殿は残念ながら落雷によって焼失してしまいましたが、灯篭と鳥居は今もそのまま残っています。また。二里小学校には1937年(昭和十二年)に当時のお金で千円もの奨学資金を寄付しています。東京で活躍しながらも伊万里をこよなく愛した雷太の人柄がうかがえます。
「日本のために尽くしたい。」という大きな志を持ち、多くの苦難に打ち勝ってわが国の産業経済発展の基礎をつくった雷太は、1938年(昭和十三年)、七十六歳で亡くなりました。全国の新聞はいっせいに、「財界の巨星落つ」と報じ、その死は国中の人々から惜しまれたということです。
八幡神社には、雷太の偉大な業績をしのび、銅像が建てられています。はるか遠くを見つめる雷太の目は、強い信念と大きな夢を持って努力することの大切さを教えています。